山の子学園共同村は令和4年10月、古町コミュニティセンター(公民館)やカフェと一体になった複合施設としてリニューアルオープンしました。このインタビューでは、その経緯や地域共生社会に向けた想いなどを、長和町役場町民福祉課のお二人と長野支部 統括施設長にうかがいました。
インタビューメンバー
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長野支部 統括施設長
山の子学園共同村
施設長村田 伸造
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長野県小県郡長和町
町民福祉課 課長藤田 孝氏
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長野県小県郡長和町
町民福祉課 係長中原 正達氏
長和町で育まれた「山の子学園共同村」ヒストリー
まずは山の子学園共同村について教えてください。
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村田
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我々、社会福祉法人樅の木福祉会は1965年(昭和40年)に神戸市で設立されました。そして、法人3番目の施設として1977年(昭和52年)3月に開設されたのが「山の子学園共同村」です。長野県のほぼ中央にある旧長門町(ながとまち)、現在の長和町(ながわまち)にあります。令和4年6月に長和町の大門地区から古町地区に移転新築いたしました。
神戸市に本部のある法人が数ある地域の中で、長野県の長和町を建設地に選んだ理由や経緯を教えてください。
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村田
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どうして本部のある神戸市から600km以上も離れた長野の地に施設を建設したのか、ということは皆さんによく聞かれます。47年前、樅の木福祉会は利用者が安心して伸びやかに暮らせる場の創設を目指し、当時多くの実践があった「ユートピア」としてのコロニー(※)をイメージして施設建設を計画し、候補地を探していたそうです。1975年(昭和50年)当時は、市街地に建設できる場所はなかなか見つからず、様々な候補地を当たる中で、長野県を通じて長和町(旧長門町)が別荘開発直後の土地の一角を貸与してくださることになりました。雄大な蓼科山を望む自然豊かな場所で農業、畜産、陶芸、機織りなどの活動を中心に自給自足に近い暮らしを送ることを目指してこの地が選ばれたそうです。
※コロニー(生活共同体としての村)
1970年(昭和45年)前後に、それまで障害者が終生安心して暮らせる施設がほとんどなかった日本で、障害のある人が安心して暮らし、働く場もあり、生活がその中で完結している100名以上の大規模施設が国主導で建設されました。そこで集団生活を送りながら施設全体で社会とつながりを持とうとする実践が、民間も含め各地で行われておりました。当時、社会の理解が乏しく社会参加が困難であった障害者にとって、その場所は「ユートピア」となるという考えもありました。
ただ、大規模施設を町中に建設するには課題も多く、社会参加の機会を得ることや大規模施設で個人を尊重した暮らしを提供することの難しさなどから、次第にその実践は減少していきました。
山の子学園共同村のある長和町は、どのような町なのでしょうか?
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藤田課長
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長和町はいわゆる「平成の大合併」の折、旧長門町と旧和田村が合併してできた、あふれる自然に包まれた、きらりと耀き続ける町です。詳しい事情を知る職員はもういませんが、当時の長門町が福祉に理解があったことから、樅の木福祉会の施設の候補地として名乗りを挙げたのだと思います。
長和町が福祉に理解が厚かったことや、当時、施設を建設するのに適した環境が揃っていたことが大きかったのですね。利用者さんは長和町の方が多いのでしょうか?
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村田
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常に町内出身の方にご利用いただいており、最近は少しずつ増えてきております。また、将来的に利用したいという声もお聞きします。
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藤田課長
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長和町としても、生まれ育った町で暮らし続けていきたい人が、町内に施設がないことやサービスが行き届かないばかりに、長和町を去ることが少なくなれば良いと考えています。いざというときに、住んでいる町にしっかりとした障害者支援施設があるという安心感は持っていただけていると思います。障害のある方やそのご家族の目線に立つと、45年以上もこの地で障害のある方の支援に尽力していただいている、山の子学園共同村の存在は非常に大きいです。
地域共生社会のシンボルとして
山の子学園共同村が令和4年10月、公民館的機能やカフェと一体になった複合施設としてリニューアルオープンしました。町と協働し、コミュニティセンターと合築することになった経緯について教えてください。
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村田
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旧山の子学園共同村は、長和町の中でも自然豊かな別荘地である、美し松地区にありました。環境面において良い面もある一方で、標高1300mの高地という事で緊急時の対応では病院まで30分以上かかるという立地の問題があったり、築45年を迎えて老朽化も進んでいました。法人として「できれば長和町内で移転を」と探している中で現在の土地に決まりました。
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藤田課長
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その土地の隣には古町公民館があったのですが、こちらも同様に建設してから40年以上も経っていました。まだ使えはするものの、このままいけばいずれ改修や建て替えをしなければならない状況でした。
さらに国としても、障害者をはじめとする多様な方々が当たり前に地域に溶け込める、「地域共生社会」の実現を推し進めているタイミングでした。町としても包括的な意味での「地域共生社会」実現に向け、何かシンボル的な施設があれば良いと考えていました。
具体的な課題としてほかにも「少子化」「子どもの貧困」や「お年寄りの居場所作り」などさまざまある中で、その全てとはいわないまでも、課題解決のための拠点のような場所にしたいという思いから、コミュニティセンター(公民館)との合築を進めていく流れになりました。
移転新築のタイミングと時代の流れから、新しい形の一体型施設が生まれたのですね。移転後に利用者さんに変化はありましたか?
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村田
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4人部屋から個室になったことは大きな環境の変化だったと思います。皆さん徐々にお部屋を自分好みにして楽しまれています。また、利用者さん同士、人間関係で悩むことがあっても、自室に戻って気分転換できる場があることは大きいと思います。
今までは食事の時に配膳など利用者さんに役割をもって頂こうと思うと、当番のようなものを決めざるを得ませんでしたが、少人数になったことで自然と自分の役割を理解して、お互い助け合って生活をしている姿があちこちで見られるようになりました。
職員にも変化はありましたか?
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村田
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旧施設の頃は来園者も少なく、地域との接点を持ちにくい環境でしたが、利用者さんが社会的な活動を行う中で、職員は社会のルールを伝えるための見本となるような意識を持っていました。
今はコミュニティセンターを利用する地域の方からも利用者さんや職員の様子がよく見えるので、接し方、声のかけ方一つにおいても見られているという意識をより高く持てるようになりました。これは移転前から変わらないことですが、私たち職員は地域との架け橋になることを目指し、その言動は地域の方が利用者さんと関わる際の参考ともなるので、そういう点でも私たちの立ち振る舞いは大事にしていこうと伝えてきました。
まちと想いをひとつに
施設新築にあたって、工夫した点はあるのでしょうか?
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中原係長
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正面入口から中庭に抜ける通りの床にモザイクアートを制作したのですが、町内の小学生と利用者さんが一緒に制作の一部を手伝ってもらう取り組みを行いました。自分たちの作品を見にきたり、何十年経っても自分たちが施設の一部を作ったという思い出ができるのではと。子どもの頃の小さな経験が、大人になったときに偏見のない価値観を創造することにも期待しています。
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村田
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せっかく町と協働して施設を建設するので、何か象徴的なものが欲しいと思っていました。子どもや障害のある方とともに作ることができ形に残るようなものが良いと相談し、長門小学校、和田小学校の児童と山の子学園共同村の利用者さんとで一緒に制作しました。長和町は黒耀石の産地でもあるので、これも作品に取り入れています。さらに建設予定地で縄文時代の遺跡が見つかったこともあり、出土品をモチーフにした作品に仕上がっています。
自然に集まって、だんだんと当たり前に
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藤田課長
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施設には「YAMA Cafe」が併設されているのですが、コミュニティセンターや隣にあるテニスコートなどからの動線もよくできていると思います。障害者施設にカフェだけが併設されているよりも、もともと需要のある場が周辺にあることで、自然とカフェに立ち寄る流れができました。カフェの窓からは、中庭越しに施設の様子がよく見えるようになっています。こうした自然な認知の積み重ねが、障害のある方への理解につながっていくのではないでしょうか。
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中原係長
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個人的にはカフェ自体の役割にも期待していきたいです。例えば一人暮らしのお年寄りがランチに来ることによって孤立化を防げたり、ゆくゆくはいわゆる「子ども食堂」のような子供の貧困問題の解決につなげていけたり。
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藤田課長
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カフェの運営には「障害者雇用」の創出という意図もあります。カフェの運営は一筋縄でいかないとは思いますが、地域課題解決のためにも常に新しい仕掛け作りは今後も続けていきたいですね。
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村田
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カフェのオープン準備の際はスタッフ一同が慣れない中で、笑顔であいさつができるか、オーダーを間違えずにお客さんへ提供できるかなど、冷や冷やすることの連続でした。プレオープンとして長和町の羽田町長はじめ、長和町役場の方にもお客さんの目線で的確なアドバイスを頂きました。オープンしてからも季節に応じたメニューの開発や、地域から求められているランチメニューの検討など、ありがたいことに様々な期待の声も寄せられており、日々楽しくチャレンジさせてもらっています。
地域に暮らす方々と利用者さんの交流の場になるような拠点であり、将来的にはもっと幅広い意味での地域課題解決につながっていく未来が見えますね!山の子学園共同村としては、どのような未来を目指しているのでしょうか。
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村田
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私たちは、障害のある方々が“普通に暮らしていける”未来を目指しています。
山の子学園共同村ができた当初は自らの希望ではなく「施設に入らざるを得ない」利用者さんも少なくありませんでした。障害のある方々の暮らし方に選択肢が少なかったのです。地域共生社会実現の拠点として山の子学園共同村がここにあることで、地域の相互理解が深まって、障害のある方がその場でありのままに暮らせるようになっていけば、目的や期間が明確な利用がより増えていくのではないかと思います。利用者さんのご自宅での生活環境が整うまでの一時的な入所でも構いません。単に施設に入って終わりではなく、利用者さんの選択肢を広げるための支援施設でありたいと思っています。
誰にでも“普通に暮らす”選択肢を
樅の木福祉会さんにとって“普通に暮らす"とは具体的にどのような暮らしなのでしょうか?
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村田
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“普通に暮らす”と一口にいっても、いろんな方がいろんな生活をされていて、どれが正解ということはないのだと思います。こうした施設を利用しながら好きなことをして幸せに暮らしている方もいるという意味では、支援施設を利用しているから“普通に暮らせていない”ということはありません。例えば家族と一緒に生活することが“普通に暮らす”ことだとしても、家族の中で居場所がない方だっているかもしれないですし。
ただ昔は障害のある方は「施設で暮らす」選択肢しかなかったですよね。選ぶ余地がない中での「施設暮らし」と、いろんなスタイルの生活ができる中で『選び取る暮らし』それはまた違ってくると思います。
なるほど。“普通に暮らす”というのはどれが正解ということではなく、いろんな選択肢から選び取れる状態であるということなんですね。
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中原係長
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施設を利用する、家族との生活を優先する、必要な時に必要な支援を受けるといった選択を当たり前のようにできる地域にしていく、町としてもそんな支援をしていきたいと思います。
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村田
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施設を利用する方の中には社会のルールに戸惑い生活のしづらさを抱えている方もいらっしゃいますが、施設を利用することで支援者と一緒に社会のルールを理解し、住み慣れた場所に戻って暮らせるかもしれません。そして、利用者さんの「変化」とともに、地域で支えて下さっている住民の皆さんも、この拠点を通して日頃から障害のある方との接点が増え、相互理解につながることで、この地で暮らす誰にとっても住みやすい地域共生社会の実現につながるのではないかと思います。
地域共生社会実現のためには利用者さんが社会のルールを理解するための支援も必要である一方、地域の方々や町全体が理解を示していくことも重要。そんな「地域共生社会」実現の一助になるのが、今回誕生した一体型施設なんですね。
災害時にも安心!福祉避難所としても機能
長和町と樅の木福祉会は2022年(令和4年)11月、災害時の緊急受入れ協定を結びました。そのきっかけや経緯を教えてください。
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中原係長
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長和町は一級河川が流れていたり、四方を山に囲まれていたりと水害や土砂災害の危険性があるエリアです。災害時は障害者のための福祉避難所が必要になりますが、普通は一般の避難所から行政を通して福祉避難所への受け入れをお願いしています。樅の木福祉会さんには古町コミュニティセンターの指定管理もお任せしているので、障害のある方が直接福祉避難所として利用してもらえる仕組みになっているんですよね。それで協定を結べたらというお話になっていきました。
避難所は行政が開設してから受け入れという形になっており、どうしても時間がかかるんですけど、樅の木福祉会さんと協定を結ぶことにより、24時間体制でいち早く住民の方が避難できるようになります。幸いにも協定を結んでから災害は起きていないため実際の稼働はまだありませんが、住民の方にも安心していただける環境づくりができたという実感があります。
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村田
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樅の木福祉会の本部は兵庫県神戸市にあり、阪神淡路大震災を経験している方が少なくありません。例え協定を結ばなくとも、何かあれば協力していこうという姿勢が元からありました。そういう面においてもスムーズに進んだのかなという印象があります。
災害時の協定を町と福祉施設が結ぶ事例というのは、珍しいことなのでしょうか?
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中原係長
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自治体と福祉施設が災害時の協定を結ぶこと自体は珍しいことではありません。ただこれだけお互いの顔が見える関係性で、実際に災害が起きた時の想定までできている自治体は珍しいのではないでしょうか。具体的には災害が起きたときに〇〇さんをどう受け入れるのか、といった固有名詞まで踏み込んだ話ができているのは大きいです。
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村田
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長和町さんが優れているといわれる理由のひとつだと思います。普通は入所される時に初めてその方の情報を把握するものですが、定期的に情報共有ができているので、あの方は入所の支援が必要かもしれないといった情報を事前に知ることができるのです。それほど幅広くニーズを把握していただいている感じです。
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藤田課長
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ご家族の方も安心ですよね。たとえばお子さんが障害を抱えてらっしゃる場合、親御さんも高齢になってくると自身の体力や病気の面でいつまで一緒に過ごせるか心配だったりします。
でもいざとなれば『山の子さんがなんとかしてくれる』『困った時の山の子さん』という安心感があれば、より前向きに暮らせるのではないでしょうか。
事業者さんが頑張っていても、行政が応えられない事例もあります。その点長和町さんは積極的ですよね。
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藤田課長
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うちはまずトップ、町長の想いが同じベクトルを向いているのが大きいです。障害のある方、子どもさん、お年寄りの方を含めみんなの人気者ですから。長和町職員の誰よりもYAMA Cafeを利用しているんですよ(笑)
町長自らですか?!
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村田
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私は役場でお会いするより、カフェでお会いする方が多いですね(笑)今日もいらっしゃいましたよ。この前は利用者さんが同じ席に座ろうとしたときに、「一緒に食べますか〜」なんて気さくに接してくださって、必ず中庭に出て利用者の皆さんに「元気ですか〜?」と声をかけてまわって下さいますね。
地域共生が当たり前になる環境を目指して
町長を筆頭に藤田課長や中原係長の熱い想いや地道な働きかけが、現在の関係性を築いているのですね。施設として、将来的な、例えば10年後の展望や理想の姿はありますか?
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藤田課長
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10年後にどうなっているかは分かりませんが、変わらず地域の方たちが集まる場所であり続けてほしいです。もしかしたらカフェではなくなっているかもしれないけれど、カフェの運営はあくまで地域共生社会実現のための一つの手段なので、どんな形でも多様な方々の居場所として機能し続けていれば良いかなと。
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中原係長
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人口減少が進んでいますが、古町は長和町の中で中心的なエリアのひとつなので、ここを拠点に人の流れが生まれていくのではないかと期待しています。子どもたちや高齢者の方たち(皆さん)が自由に交流できる環境になればいいなと思いますね。
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村田
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障害者施設が当たり前のように溶け込んでいる町に住む子どもたちは、障害のある方に対する意識や価値観が変わってくると思っています。10年後20年後、子どもたちが大人になったときに無意識の部分にでも何か良い影響があれば、素晴らしいことだと思います。
合築を終えて半年、振り返ってみてどうですか?
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村田
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山の子学園共同村と古町コミュニティセンターを合築する「地域共生社会実現の拠点作り」の構想が出てきた際に、地域の具体的な課題を可視化し、この拠点に対するニーズを捉えられたのがよかったなと思っています。事前に課題抽出のためのワークショップを行い、さまざまな立場の方からご意見をうかがいました。生の声が集まったことで具体的な課題に基づいた、想いのこもった提案になったのではないかと。提案書を書くときも、「あの人はこう言っていたよねぇ」、なんて顔を思い浮かべながら取り組むことができました。机上の空論ではなく現場の声が詰まった施設にするため、腹を割って話し合う時間は大切だと思います。
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中原係長
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町の規模感もあると思いますが、信頼関係を育んだからこそこういった取り組みができるようになったという経緯があります。定期的に顔が見える関係性をつくり、信頼関係を積み重ねていくことが大切なのではないでしょうか。
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村田
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信頼関係が築かれていないと、いざという時の対応も押し付け合いのような形になってしまうかもしれません。しかしお互いに顔が見える状態で情報共有ができていれば、自然とそれぞれの役割を少し超えて重なり合おうと、お互い様の気持ちでやっていけるのではないかなと思います。
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藤田課長
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文字通り平行線にならないためには、まずは自分から歩み寄ってみることです。樅の木福祉会さんとは同じ想いを持つ仲間として、ともに歩んでいると思っています。
町としては子どもからお年寄りまで、誰もが安心して暮らしていける未来を理想としています。今回、山の子学園共同村と古町コミュニティセンターの合築という地域共生社会実現の拠点が構築できたということは、障害のある方々だけでなく長和町に住むさまざまな方にとって相互理解が生まれるきっかけになるのではないでしょうか。長和町や樅の木福祉会さんをモデルケースに、ほかの地域でもそんな事業が増えていけば嬉しいです。
お互いを理解すること、信頼すること、歩み寄ること。町とひとつになって成し遂げた一体型施設の誕生までには、理想を実現するための熱い想いが込められていたのですね。本日はありがとうございました!
※肩書および掲載内容は令和5年3月当時のものです。